アダルトチルドレンサバイバー備忘録

一般人の中に紛れ込む病み(闇)人。主にメンタルのことを好き勝手に徒然と書いています。自分の為に、家族の為に、ずっと自分自身のカウンセリングを続けています。

失ったもの、得たもの

私は、恵まれたとは言えない家庭環境で育ってきた。

その中で経験してきたことが今の私を作っている。


周りの人たちに助けられながら
なんとか生活してこれて今の自分がある
と思ってきていて
実際に、部分的にそうだったところはある。

でも、助けられたことがある分、
失ってきたことも多くあった。

皆さんのお陰という、
感動話でおしまいにしたくない。

自分の育ってきた環境において
失ってきたものと
得てきたものを明確にし、
なぜ今の自分が存在するのか
知ることで区切りをつける方向に行きたい。


一般的な家庭の中では
子どもは大切にされ、寄り添われ、
人間として尊重され
その中で自由に自分自身を育み、
表現することを
つちかっていってるんだなと

前回のブログで思ったことを書いた。


小さい頃の私の家庭は
物質的には恵まれ、衣食住に不自由なく
生活ができていた。


その部分が欠損したまま大人になり
今の生きづらさを作ってきたのだと思う。

その代わり、生きるすべとして
被害者となって現実を見ないようにしたり
頭を働かせ、周りからみたら姑息な悪知恵も
自分自身を守るための、大事な方法として
自分の中に取り入れてきた。

自分では気付かない、自分のしたたかさを
得ていき、これらを多用することで
周りに迷惑をかけたかもしれないが
私にとっては必要なもの。

でも寄り添ってもらった感覚はない。
母親はいつもすれ違っていた。なので
私は気持ちを言うことができなかった。

幼稚園であったこと、
近所の友だちとの間であったこと、
悲しいことがいくつかあったのに
お母さんに言えなかった。

私にとっての喪失は
悲しいことがあったことじゃなくて
それを吐き出し、受け止めてもらうことが
できなかったことだと思う。

小さかった私の悲しみや、
みんなとの違和感を誰にも言えず
ずっと閉じ込めてきたことが
今も再現されている。

お母さんに言えない、もしくは
言っても受け入れてもらえない

それを父親の膝の上の安全地帯で
逃していた可能性がある。
父親は、私をとても可愛がってくれ
その場での感情開放はあったけど
その、私の悲しい気持ちを話すことはなかった。

両親を早く亡くしたという
物質的な喪失もあるけれど、
そうした出来事で沸き上がる、
悲しみや寂しさを

 

この、失ったものと得たものの違いは
お互いに対局にあり

失ったものは、自由さであり
得たものは、不自由さ。

自由も不自由も、どちらもエネルギー。
私は不自由さをエネルギーにしてきたけど
使えば使うほど、不自由さは大きくなっていった。