アダルトチルドレンサバイバー備忘録

一般人の中に紛れ込む病み(闇)人。主にメンタルのことを好き勝手に徒然と書いています。自分の為に、家族の為に、ずっと自分自身のカウンセリングを続けています。

調子が良いことが変な感じ

ここ最近、体の調子が良い。

 

仕事から帰ってきてもすぐに横にならないでいられる。

何かをする気になれる元気が残っている。

 

変な感じ。

 

だって、体がダルくて重くて疲れやすいっていうのがデフォルトだから

調子が良いと調子が狂う感じさえする。

 

ビタミン剤を飲んでいるから?

って思ったりもしたけど、いやそんなの前から飲んでるし。

飲んでてもダルい時はダルかったしね。

 

正解かどうかわからないけど、ゲームをしなくなったことは少なからず影響していると自分では思っている。

 

ゲームをすれば夢中になって寝不足になる。

それが続くと夜中まで起きている生活リズムが当たり前になって、寝られないのが続いてしまう。

眠いのにもかかわらず、それが続いてしまう。

 

というのが何年も続いていた。

 

その生活が日常だった時は、疑問に思うこともなかったしむしろ好きなことを続けていられるから寝不足に陥っていることはおざなりになっていた。

 

今でもゲームをする日はあるけど、ある程度でやめようとケリをつけられる。

だってやり過ぎると明日の自分が困っちゃうから。

 

でもどうしてだろう。やっぱ変。

あれだけ夢中だったのに、何が私の中で変わったのだろう。

 

遊ぶには遊ぶけど抑制ができる自分が変な感じがする。

そんなに簡単に依存が治まる訳がないって思ってるから、またどうせやり続ける日がくるんだろうって自分に言い聞かせたくなる。

 

私がおかしい。自分が変。でも体調は良い。

ラクな自分を受け入れられないってこういう感じなのか。

 

それとも別の何かに私の依存は向いている?って可能性も大きい。

仕事に依存かなって思い返すけど、たいして残業もしていない。

それに忙しかったら体も疲れ果てるのにそれもない。

 

順調にいっていると納得できない、受け入れられないアダルトチルドレン

 

きっと何かあるに違いない。そう思っている。

素直じゃないといえばそうだけど、そんな簡単なものじゃないしね。

 

 

無駄な時間であって必要な時間

今の職場に入って、日報を書くようになった。

未だに苦手で面倒で出来ることならやりたくないと思いながら昨日も入力した。

でも会社の決まりだから仕方がないと嫌々とやっている。

 

何のためにやっているのかわからなく、やらされ感しかなかった。

でも私にとってこれをやることは重要なことではないのか?と最近思い始めている。

 

その日1日のことが思い出せないから、入力するのに苦労して嫌な仕事になる。

 

じゃあ、なぜ思い出せないのか?という疑問が沸く。

これは、私が過去の記憶を思い出せないことと同じなんじゃないかと思う。

 

 

仕事をしながら、焦りながら戸惑いながら、時には怒られるかもしれないという妄想が入り常にパニックが伴っている。

 

パニックから逃れるために、たまにスマホを覗き見して現実から遠のくことももれなくやっている。

それに時間を使うことで効率も悪くなるのだけど。

 

こんな状態で1日やったことを覚えていられる訳がない。

見た目的には落ち着いてやっている様に見えたとしても、私の脳内はフル可動している。

 

 

職場の中では私がいちばん仕事が遅い。

みんなはパニックに入ることなどなく、そのままスッと進められているのだろうなと見ていて思う。

 

遅れまい、早くやらねばという自分に課したプレッシャーでものすごい勢いで脳を働かしているんだから、そりゃあ疲れるはず。

 

以前からセッションで指摘されていたけど、こういうことなのかと。

わかっているようでわかっていなかったことが、やっと意識化ができ始めてきた入口に過ぎないけど、自覚できることは大きい。

  

  

パニックに入る瞬間をつかみ、そこに陥る自分から戻れるように修正する。

簡単ではないかもしれないけど、それでも意識し続けて、できる限り「今」にいる時間を保つようにする。

そうすることで、自分の行動を忘れずにいられるかもしくはスッと思い出せるんじやないかという推測。

 

と同時に、これは自分の人生においても当てはまることで、なぜ過去が思い出されないのかはこういうことだったのかと。

 

だから自分史を書くように言われたのかと納得ができる。

 

  

私は過去を取り戻さないといけない。

それが今を生きることになる。

 

ここまで行き着くまで、無駄な時間だったけど必要な時間だった。

 

 

職場の日報も、一日を振り返ることで

何に時間を割いてしまったか、効率が悪かったかなどを

省みて、次はどのようにしていこうかと考える力を個人に付けさせる目的もあったんだろうと思う。

 

というか、そういったこともみんなは気づいていたし既に実践していただろう。

普通の、一般的な人な人はわかることなのかもね。

 

入社してだいぶ経ってしまったけど、私は今 気づいた事だけでも良しとしよう。

 

これからだ。

 



 

被害者にならない方法

先日、職場にて業務とは関係のない雑用が命じられた。

 

正確には命じられてはいなくて

休日だけど出来る人だけ集まって作業をしましょう

という自主的な参加のものだった。

 

私はと言えば

参加しなくてはいけない、参加しなかったら後で悪口大会のターゲットにされるから嫌だけど行かないといけない

という妄想が入って嫌々と参加した。

 

行ってみたらみんな参加している。

それも元気に。

 

陽キャ軍団の人たちは、作業自体を楽しんでおり、そこでコミュニケーションを取っていた。普段しゃべらない人たちと関わって笑いあったりしている。

 

そして陽キャ軍団は交渉を忘れない。

ボスにそれなりの見返りを求めた。

複数人で、笑顔で

 

休みの日に出てくるんだから、これくらいしてくれるでしょと。

さらっと、間を空けて何度も伝えていた。

 

その結果、ボスはその要求を飲み、私たちは給料ではないけどそれに見合う報酬を得られた。

 

結局のところ楽しかったし、みんなと作業をすすめられた一体感もあったし、納得のできる報酬と同等のものを得られて、悪くない作業だった。

 

でもそれは陽キャ軍団のおかげ。

彼らがいなかったら、ただの被害者集団になっていたと思う。

 

これが一般の動きなんだなと自分との違いを感じられた。

こうできたら、自分も相手もモヤモヤしないし楽なんだろうなぁ。

 

彼らは、幼少期に虐げられたり否定されることで、行動を自ら阻害するまでに至ることがなかったのだろうけど、これからだったら自分にもできないことではない。

 

どういう時に自分にストッパーがかかるのか、その手前をつかみ、それを過去につなげていけばいい。

簡単に書いてるけど簡単じゃないことも重々承知している。かといってやれないことでもない。

 

私達は、「できない、ずるい、どうせ自分なんて…」で終わりにしないで、未来に向けて出来ることがあるし、それをする者が変わっていけるんだということを認識していかなければいけない。

 

 

人生は死ぬまでの暇つぶし

という言葉を聞くことがある。

だとしても私はその暇つぶしさえも今は思いつかない。

 

これから自分の過去を明らかにしていく中で

同時に自分の暇つぶしも見つけていきたい。

 

今までは自分を生きていなかった。

セッションを受けていく中で少しずつ現実に居ない自分を知っていきながら現実に留まろうとしてきた。

 

依存先を見つけて現実逃避する傾向のある自分と共に生きながら人生を終えるまでの暇つぶしには何があるだろうか。

 

大それた目標は無くてもいいけど目先しか見ず、その上目先からも逃げ出そうとする自分から

少し遠くを見つめてその見つめた先にどうありたいかというのを考えていきたい。

 

40代の時には、50歳までには独立して稼ぎたいというぼんやりとした目標があった。

といっても目標に対しての努力はしてなかった。

 

50歳になったら、55歳までにはそうしたいという同じ目標を掲げたにも関わらず、そのためにどう動けばいいかというのを実行もせず、考えることもせずにゲームに明け暮れていた。

挙句の果てにはゲームで配信をしてみようという考えさえ出てきた。

それもそれで悪くはないけど、真剣さはなく楽して稼ごうというだけのもの。

そこに努力は存在せず、なんとなくyoutuberになったら稼げるんじゃないの的な安易な考えでしかない。

 

暇つぶしをするためにも、まずは健康でいないと暇つぶしができない。

健康を意識しながら、セッションを受けながら自分のメンタルと向き合うことを続け、その中で自分の好きなことをやっていくと考えたら

文章を書くことが浮かんでくる。

 

伝えること。

振り出しに戻るけど、だからこそ自分の歴史を文章にして残さなければ始まらない。

 

やっぱりそこなんだよな。

 

日々、仕事をして家に帰って寝る、仲間とボイスをする、という日常を基盤としたうえで、本を読み、同時に自分を表現することをしていくことが

 

自分に可能な今の暇つぶしのように思う。

書きながら自分で答えを導けたのなら、これをやっていくしかない。

 

 

 

 

 

 

 

無駄な知識は持たない生活

職場の人たちを見て自分のズレた部分の比較は相変わらず入る。

みんな意外といろんなことを知らない。

 

知識はそんなに必要としていないようで、趣味はあれど体感して楽しんでいる印象を受ける。

ちょっとした会話の中で

そんなことも知らないんだと思うことがしばしばある。

 

無意識の上から目線な自分にハッとし

そもそも私は、目の前のことを見ずに別のことにターゲットを変えて没頭してきたから、そりゃいろんなことを知っているよなって我にかえる。

 

いろんな本を読み

ネットを徘徊し

サイトを見漁り

動画を見まくり

その分だけ知識はついて当たり前なのに。

 

上から目線の自分のズレたマウントからの一瞬にして恥ずかしくなる。

何一つ自分と向き合おうとせず、目移りする何かに逃げ、無駄な知識ばかりを得てきた。
そんなんで得られた知識ってどうなんだろうね。

みんなを見てると、今を楽しんで生きている。

そう思い込みたい私がいるのかもしれないけど、少なくとも私よりは今を生きている。

 

だから疲れないし、切り替えも早いし、仕事もできる。

頭の中で無駄な動きが少ないんだろうなぁ

パニックにもならないからそんなにエネルギーも使わないだろうし。

日常的にイン・ザ・パニックの私がいちばん仕事量が少ないのにヘタれている。

 

目の前にあることに真剣に向き合う人を見ているとかっこいいと思う。

私もそうやって生きていきたいと思う気持ちが最近は強くなってきている。

 

 

 

 

 

最高の教師を見て

最終回の最後の10分くらいから号泣。

 

泣くといっても自分が何かに重ねてたのか

もしくは主人公の気持ちに入り込んでいたのか

 

明らかに自分に重ねてたからなのだけど。

 

景色に色がないと言ったあの子の封鎖された感情。

アダルトチルドレンが持つ自分が分からない、表現できない感覚。

脚本家はそこまで考えて作品を作っていたんだろうかと

良い意味で洞察力にゾッとするような凄みを感じた。

 

私を含めた心に痛みを抱えてきた仲間たちは、とあるカウンセリングルームで自分と向き合うことになった。

それを続けて10年の月日の中で、カウンセラーさんに助けられながらも自分というものを確立させてきた。

 

この歪み多きアダルトチルドレンを忍耐強く長い目で、私たちが楽になっていくようにずっと見守り、支え、時には叱咤激励し、前に進むように共に歩んできてくれた。

 

それはドラマの中で九条先生が生徒に寄り添う姿と重なった。

見た目や性格は全然別だけど、いつも真剣に相手のためを思って行動するところは重ねざるを得ない。

 

みんなが変化していく中で変わらない自分を嫌悪する最終回の男の子。

それは、私を含めカウンセリングルームの中でも時折り起きてきたこと。

いじけて自分を責めることで自分を保つしかやり方がわからなかった自分を見ているようだった。

 

死んでしまったクラスメートの机へ日々花を飾ることは、ただのきれいごとではなくて、その行いでそれぞれの生徒の心に過去あった出来事が忘れることなく刻まれていくことであり、そのことをみんな意識しながらやっているように見えた。

 

私は、過去に自分がされてきたこと、してきたことを都合よく忘れて来てしまっている。そのことがセッションで話にあがり、自分史を書いていったらどうだろうかということでやり始めた矢先だっただけに、自分の歴史を包み隠さず自分自身に刻むという部分に強く惹かれた。

 

されてきた被害者でもあり、してきた加害者でもあり

それをカウンセリングで拾ってきてもらいながら自分の景色に色を付けてきたことを私は忘れてはならないと、そのあたりから涙が頬をつたいはじめた。

 

 

心に痛みを抱える方は、ぜひ見て頂けたらと思う。

自分と向き合うという、それが気恥ずかしいと思う人からしたらクサイことだけど、でも大切なこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とあるメンヘラの1日

夕方まで陽キャリア充の人達と過ごした。

 

疲れたとしか言いようがない。

彼らは元気だ。

人にどう思われるだろうなんていう視点がない。

パワフル過ぎる。

 

メンタルのことを共に学び自分のことを言い合える仲間たちと過ごす時間と違う。

 

まだまだ偏りが多くて殻に閉じこもった自分でいることをこの心身の疲れが物語っている。

 

楽になってきた。

苦しみは減った。

しかしまだまだ自分を見つめる旅は続く。

 

 

疲れた私は、約束していた孫に会いに行った。

 

可愛かった。手を繋いでいっぱい歩いた。

子どもたちが小さい頃にも、こんな余裕を持って接することができたのならと後悔も浮かびながら。

 

 

孫の親である我が子が言った。

自分の家庭を持ってから、自分のきょうだいのことを考えるようになったと。

何も悪くないのに、どうして下のきょうだいにあんなにひどいことをしてしまったんだろう。

謝っても謝りきれない。申し訳なかった。

あんなに可愛かったのに、もっと大切にしてあげればよかった。

 

返す言葉が見つからず、ただ聞いていると我が子は続けて話しだした。

 

自分を見ているようだった、自分ができなかったことを同じように出来ずにいる臆病な様子を見ているのが嫌だった。

 

私は引っ込み思案だった長子を叱責することが多かったことを思い出す。

私は自分のしてきたことでぎゅっとえぐられる。

 

話をひと通り聞きおわり

きょうだいたちにしてあげたかったこと、可愛がってあげたかったことは今でもできるよと伝えた

自分の子どもにも還元できるよ

優しさは無理に本人に返さ無くてもいいものだと思うよ

 

自分に言い聞かせるような気持ちで言ったんだと思うし、それが正解かも分からないし

もしかしたらとんでもないことを言ったかもしれない

 

 

今日は、陽キャの人達の中に混ざりながらも心は孤立した自分の疎外感を

孫と我が子で帳消しにさせてもらった。

ごめんなさいとありがとう。

 

嬉しいような、後味が悪いような、自分の気持ちすら把握できない状態だけど

我が子が少しずつ自分と向き合うことをしている様子に若さと頼もしさを感じた。

 

私はどうだ?

停滞低迷が続いてるので打破するためにセッションの回数を増やしてみたけど、それも他力本願だね。

 

文章も全体的に暗い。

まぁ、それが今の自分ってことで。