アダルトチルドレンサバイバー備忘録

一般人の中に紛れ込む病み(闇)人。主にメンタルのことを好き勝手に徒然と書いています。自分の為に、家族の為に、ずっと自分自身のカウンセリングを続けています。

普通の家庭

前回のセッションで

普通の家庭を喪失したという話がでた。

キツかった。

じわりと感じ始めていたことを

はっきりと突きつけられたようだった。

 

普通の家庭を求めて生きてきた。


無自覚であったが
あれもこれもと思い当たる節がある。

子どもたちにバランス悪く
お金をかけていたのは、せがまれたことを
断れないからと思っていたが
本当は不憫な思いをさせなくないから。

洋服などの外見やスマホなどの持ち物に
お金をかけ、母子家庭で収入も不安定なのに
質素な暮らしを心がけることもなかった。

裕福さの見栄を張りたいのとはちょっと違い
普通の家庭に固執していたから
周りの子どもたちが持っているだろうものは
私自身のものを我慢しても買ってあげていた。


周りの援助や保険給付金などで
お金がまわってしまっていたため
何とか生活出来てしまっていて、
それが無自覚さを長引かせてしまっていた。

分かってはいても、
しっかりと考えたくなかったことは

訳あり家族の入居者が多い賃貸物件に住み
私はうつ病で入院し
子どもたちは不登校を経験し
人間関係も近所付き合いやママ友と
コミュニケーションがとれない
という事実。
私の理想とする家庭像とは離れていた。

外見や持ち物だけを見映え良くして
普通の家庭になっていたつもりだった。

無自覚だったのは、
そこを受け入れたくなかったから。


うつ病の時に受けていた
病院のカウンセリングで

離婚をしたくなかった
子どもたちが片親になってしまった
普通の家庭にいさせられなかった
かわいそう

と泣いていた自分がいたことを
すっかり忘れていたが
自分自身がかわいそうで出た言葉だった。


小中高と、その時の親しい友達が
自分の家に泊めてくれることもあり
それはそれで楽しい思い出だったが
翌日、自分の家に帰りたくない私がいたから
心のどこかで、みんなと違う家だったことは感じていた。


源家族で、母親が元気に生きていた頃は
まだ家庭が機能していた。
かわいがってくれていた父親もいて
その記憶があるだけに、大切なものとして
手放したくなかった。

大人になって、またあのような家庭を
築きたい、欲しい。手に入れたい。

だから若い頃から
早く結婚したいと周りに言っていたんだろう。


実際、結婚した時
義理だけどお母さんと呼べる人が出来た時
子どもが生まれた時
旦那さんが家族のために
仕事を頑張ってる姿を見た時

すごく幸せで、何もなくても
感動してこの時を忘れたくないと
うっとりしていることがあった。

抱っこしている子どもが
かわいくて仕方がなかった。


我が子が小さかった頃、私が常に
躁状態で、エネルギッシュだったのは
一時的にせよ
理想とする家庭が持てたからではないかと思う。


小さい頃の可愛がられた記憶が出てくると
私はそれを糧にして生きてこれて
今の自分でいられるんだと嬉しくもあったが

それが執着となって
回復の妨げになってしまっている今
私は手放したく抵抗をしている。

そこにしがみつかなければ
楽だろうとは思うが、割りきれずにいる。

我が子たちは、私に
このうちは普通じゃない
友達のうちと違いを感じる、と
はっきりと伝えてくる。

私はそれが不快であり、心をえぐられる。
私が普通の家庭に執着している限り、
この不快さはつきまとう。


お母さんが死んだこと
お父さんが情けなくなっていったこと
兄が荒れていったこと
いつも雨戸がしまって借金取りがくる家
 普通じゃないこと分かっていた。
 近所の人に可哀想がられてたから。


私は、行くところがあるんだ
中学生になれるんだと
はりきって引っ越していったが
周りからは夜逃げに見えてたんだろう。


母親は、新築の家を買って5年くらいで
亡くなってしまい、そこで生活できたのは
半分あるかないかくらい。

私自身も家を建てた後、2年くらいで
支払いに行き詰まり売りに出し引っ越しした。

悔しいのと情けないのと
元旦那さんに対する怒りで一人で泣いていた。
引っ越し先でも生活に馴染めず泣いていた。

母親も、長く住めず入院してしまっただけに
口惜しかったことだろうと思う。
方角やら日程やらを調べていたことを思い出す。

母親が頻繁に仮退院をしていたのは
家が恋しかったからなのかもしれない。

亡くなって遺体が戻った時、父親が母親に

戻ってこれたよ

と声をかけていたことは
帰りたがってた母親がいたからだろうか。

母親は、また病院に戻ることになると
分かっていつつも、自宅にいたかったんだろう。


お母さんの死は、普通の家庭がなくなる
大きな理由だった。

お母さんなんていなくて良かった
死んでうるさい人が居なくて楽だった
と思ってたけど

お母さんは居て欲しかった。
誰もいない家に帰りたくなかった
お帰りっていってほしかった
朝もおはようって起こしてほしかった
お母さんと料理をしたかった
今さらどうすることもできないけど
そうしたかった自分がいる。